追悼

追悼 青山純さん

青山純さんと初めて出会ったのは今から15年前の1998年、ぼくが山下達郎さんのツアーバンドに加わることになった最初のツアーのリハーサルでしたから、おそらくその年の夏ごろだったでしょうか。もちろん青山さんは日本のトップ・ドラマーとして、80年代から日本の音楽業界で知らない人はいない、伝説的なミュージシャンだったので、ぼくの方は一方的に知っていましたが、シャープなルックスの青山さんはどことなく気むずかしそうに見えて、最初は話すのにもかなり緊張していたのを覚えています。

リハーサルが進むうち、気心も知れてきて、ツアーが始まる頃には青山さんをはじめ、豪華なメンバーともすっかり打ち解けるようになっていきました。

その年のツアーは、達郎さんのツアーとしては7年ぶりで、久々に全員が集合した事に加え、ぼくや国分友里恵さんが新たに加わるというメンバー・チェンジもあって、メンバー間に何か化学反応のようなものが起こったような時期でした。

実際にツアーが始まると、お互いの演奏、音を聴いてどんどん関係が深くなっていきました。いい演奏、かっこいい音を出した時は皆が笑顔になり、お互いに伝わるように歓声やポーズで表現する。ステージ上で遠くに位置していても、常にお互いをいつも感じ合っていて、ミュージシャン同士ならではの言葉を超えた、音で繋がるいい関係はどんどん深まっていきました。

いいミュージシャンというのはえてして、いつまでも精神が若い、というか、どこか子供のような幼い部分を持ち続けています。青山さんには特にその傾向が強く、当時40代前半でしたが、とてもその年齢とは思えないような、純粋で無邪気な子供のような面を強く残している人でした。

演奏していない時、楽屋ではいつもバカ話ばかり。トークがまるでアドリブのセッション演奏のように終わりがなく、メンバー間で会話のキャッチボールが弾み、ほんの些細なエピソードがどんどんふくらんで、お腹が痛くなるほどいつも笑っていました。そんなジョークの掛け合いの中心にいつもいたのが青山さんでした。

ツアーのある日、佐々木久美さんが以前テレビで見た、世界で一番背の小さいネルソンさんという男性の話から、どんどん脱線していき、ネルソンさんのあることないことを勝手に皆で想像しあっては、終わりのないバカ話の掛け合いで夜が更けていく、爆笑の一夜がありました。

その日をきっかけに我々は更に団結していったように思います。なんだかよくわからないけれど、ひたすらしゃべって、ひたすら笑って、いい音を出したら歓声やサムズ・アップのポーズで伝えあって。

あれは、長い間感じたことがなかった、バンドを始めた時の興奮を久々に思い出すような時期でした。

土岐英史さんの提案で、ツアーが終わった1年後、皆のスケジュールを調整し、京都RAGで初めてツアー・メンバーだけのセッション・ライブを行いました。この最初のライブは本当に衝撃的でした。

それまで達郎さんの音楽を演奏するために集まり、達郎さんのシビアな要求に応えようと、ひたすら最高の演奏をするためにストイックに、切磋琢磨して演奏してきたメンバーが、思い思いのレパートリーを持ち寄り、自由自在にセッションする。メンバー全員がそれまでツアーの中で、蓄えてきた表現するパワーを一気に放出して、お客さんのため、というよりまず自分たちのために演奏する、すさまじいエネルギーがあふれ出すようなライブでした。

特に、お客さんの目からは寡黙で、クールなドラマーと思われていたであろう青山さんは、MCの時にはマイクを離さず、ひたすらしゃべりまくり、ドラムとは違う、彼の人間としての自己表現を誰にも邪魔されず、めいっぱいやっていました。それはとても生き生きとした、子供のような表情の青山さんでした。

その狂乱のライブが忘れられず、9人のスケジュール調整という難関をクリアして、何度かライブを行ううち、誰が言い出すこともなく、これはもうバンドでやるしかないだろう、ということになっていきました。

そして世にも珍しい、誰がリーダーということもなく誰が言い出しっぺということもない、ツアーのために集められたメンバーが自然発生的にバンドになってしまった、Nelson Super Projectがスタートしました。もちろんその名前は、あの、お腹が痛くなるほど笑ったツアーでの一夜、我々を固く結び付けたネルソンさんから命名しました。

我々の記念すべき1stアルバム、「Nelson Magic」はまさに、あの頃のぼくらの不思議なパワーが詰まっています。まとめ役はぼくが引き受けましたが、これはまさに生まれたてのバンドそのもののアルバムで、9人が出会い生まれた不思議なマジックを封じ込めた作品になりました。

青山さんはレコーディングが終わったスタジオで、エンジニアによるミックスダウンが仕上がる待ち時間に、誰から頼まれたわけでもないのに、いらなくなった譜面の裏に、「Nelson Magic」の1曲1曲に、青山さんらしい子供のような自由な感性で、ライナーノートのような感想文のような、キャッチコピーのような文章を書いていました。それは語彙は足りないけれど、熱い思いがいっぱい詰まっている、とても青山さんらしい言葉達でした。

青山さんはいつも表現したいことでいっぱいの子供、そのもののような人でした。ドラムという最高の相棒を見つけ、ドラマーとしてまさに日本のトップに登り詰めた偉大なドラマーでしたが、実はもっともっといろいろな形で自己表現をしたいと願っていたのではないか、とぼくは思っています。

ステージでマイクを持ったら離したくないぐらい、しゃべり続けていた青山さん、バカなジョークを限りなく思いつく青山さん、子供のような笑顔で多くの人から愛された青山さん。

あの素晴らしい時代に青山さんに出会えたことに、心から感謝しています。

天国で何も心配することなく、安らかにお休みください。さようなら。

2013/12/05 esq 三谷泰弘

追悼 土岐英史さん

インターネット経由でご存知の方も多いと思いますが、土岐英史さんがご逝去されました。頭の片隅でも全く予想もしてみなかったことで、6/27に第一報をギターの佐橋佳幸さんから電話で聞かされた時はただただ驚くばかりでした。
2020年の8月26日に京都のライブハウス、ラグで難波弘之さん、土岐さんと三人でセッションをしたのが最後になってしまいました。その時も土岐さんの様子は今まで通り、いつもの笑顔の土岐さんだったのですが、ラグでお会いした最初から、軽い打ち上げを終えて別れるまでずっとキャップをかぶられていて、あれ? と疑問には思ったものの、趣味が変わってこれからはキャップ姿をトレードマークにしていくのかなとぼんやり思っていました。
今思えば(あくまで勝手な推測ですが)抗がん剤治療で髪が抜けていたのかもしれません。

1998年、山下達郎さんのツアーメンバーに抜擢されたぼくは、そのリハーサルで初めて土岐さんにお会いしました。その時点で既にレジェンドといって間違いない存在でしたので、最初の頃はとても緊張しましたが、とてもハートウォーミングで優しい人柄にすっかり甘えさせてもらい、ぼくが参加して最初のツアーは本当に楽しい思い出ばかりになりました。ぼくらはステージ上では右端と左端で一番遠くに離れていましたが、誰かがいいプレイをするとサムズアップポーズをして満面の笑みをたたえている土岐さんの姿は今も脳裏に焼き付いています。
山下達郎さんのツアーと並行して行っていたSatellite Tourで確か大分のライブハウスだったか、土岐さんが飛び入りされ、もちろんリハーサルなしでぼくの「One and only」という曲でソロを吹いてくださいました。土岐さんはもちろん初めて聴く曲でしたが、曲の最後にぼくが歌を伸ばして音を切る瞬間に何の合図もしていないのにぴったり同時に、土岐さんものばしていた音をとめた瞬間の鳥肌が立つような経験は今も忘れられません。それはまさに音楽の神が降り立ったと思える瞬間でした。
その後も頻繁に主に京都ラグでのセッションに誘っていただき、ぼくにライブハウスでのセッションのやり方、心得などを伝授してくださり、様々な素晴らしいミュージシャンを紹介していただき、一人のインディペンデントなミュージシャンとしてのあり方を身をもって教えていただきました。
いつも土岐さんとのセッションではライブの内容をすべて任せていただいたのも、ぼくにとって大きな成長と自信になりました。土岐さんのライブということで打ち上げに顔を出すお弟子さんたちとの交流の雰囲気も、ラグでよく見ていましたが、大人になってもこういう暖かい師弟関係が築けるんだな、と少しうらやましくも思いました。
決して人付き合いのいいとはいえないぼくを、面倒くさがらずいろんなミュージシャンの方たちに出会わせてくださり、音楽をその場で作っていくことの楽しさや音を通じてのコミュニケーションのやり方を教えてくださったことは本当に心から感謝しています。土岐さんはぼくの9歳年上でしたが、同じ年頃の兄が二人いるぼくには、わがままが言える新しい兄のような存在でした。
なによりも、毎年夏に土岐さんとセッションをご一緒して毎回思うのが、去年より音が太くなってる、更に進化していてすごい、という強い印象でした。まわりの音がピアノひとつであろうとバンドと一緒であろうと常に、土岐英史の音が真ん中に大きく存在するそのすごさ。音楽にそれほど詳しくない人でもきっと感じられるだろう、あの圧倒的な音の存在感は土岐さんの最大の魅力だったと思います。
ぼくは誰にも言ったことはありませんが、土岐さんを中心としたいろんなジャンルのミュージシャンやお弟子さんたちが集まって、土岐さんの生誕何十周年かを祝うようなライブイベントをどこかでやりたいな(もしくは単にそのうちの一人として参加したい)と秘かに妄想していました。土岐さんのミュージシャンのネットワークの一員としていられる喜びをそんな形で感じてみたい、と思っていました。
残念ながら最期まで現役で現場主義だった土岐さんにそんな周年イベント的な話を持ち掛けるきっかけもなく、こうして別れの時が訪れてしまいました。

土岐さんがこの世界にいないという事を全く想像だにしてこなかったので、これを書いている今もその現実がなかなか皮膚感覚で理解できません。こういうご時世ですので、なかなか集って語り合うこともままならないですが、土岐さんとの思い出や、その人柄をゆかりのある人たちで共有したいと強く思います。
土岐英史さん、本当に長い間ありがとうございました。そしてお疲れ様でした!
2021/6/27 三谷泰弘